――「家族」から「チーム」へ
本稿で言及する「日本の国家安全保障戦略」とは、
国家安全保障戦略、
すなわち2022年12月16日に国家安全保障会議決定および閣議決定された、日本政府の安全保障に関する最上位文書を指す。
この文書を読んで、まず感じたのは危機感や高揚感ではなかった。
もっと静かな、しかしはっきりした感覚だった。
戦後日本が前提としてきた世界は、もうない。
ただしそれは、「世界が突然おかしくなった」という意味ではない。
世界は変わったのか、変わっていないのか
国家安全保障戦略には、
- 「国際社会は歴史を画する変化に直面している」
- 「パワーバランスの歴史的変化」
といった、強い表現がはっきり書かれている。
同時に、
「グローバリゼーションと相互依存のみによって国際社会の平和と発展は保証されないことが、改めて明らかになった」
とも書かれている。
この言い方は重要だ。
「初めて分かった」でも、「想定外だった」でもない。
改めて明らかになった、である。
つまり、
世界の本質が突然変わったのではなく、
もともとあった現実が、もう覆い隠せなくなったということだ。
戦後日本が生きてきた「例外的な時間」
戦後日本は、ある意味で特別な環境に置かれていた。
- 圧倒的な軍事力を持つ米国の庇護
- 冷戦後の比較的安定した国際秩序
- 経済成長と軍事を切り離せる環境
この時代、日本の安全保障は、
いわば「マッチョなお父さんのいる家族」のような構造だった。
危険が来たら、父親が前に出る。
子どもは、細かいことを深く考えなくていい。
このモデルは、実際に長く機能していた。
変わったのは「世界」より「役割」
しかし今、この構造がそのままでは成り立たなくなっている。
それは、米国が弱くなったからではない。
米国が世界から撤退したからでもない。
米国が、すべての地域で無制限に最終責任を引き受ける役割を、相対的に降り始めた
――これが大きい。
背景には、
- 国内政治の分断
- 財政制約
- 本土・西半球の優先順位
がある。
その結果、日本は
「守られる家族」の位置から、
役割を分担する側へと押し出された。
米国をスタンドオフとするラグビーチーム
この変化を比喩で言えば、こうだと思う。
日本は、
米国という司令塔(スタンドオフ)を中心にしたラグビーチームの一員になった。
ラグビーでは、
- スタンドオフは全体を見渡し、プレーを組み立てる
- しかし、タックルは全員がする
- 誰か一人が殴られ続ける構造ではない
米国はいまも最大のプレーメーカーだ。
だが、
「自分はボールに触らない」
「危険な場面は全部他人任せ」
という選手は、もうチームにいられない。
国家安全保障戦略は、
このチーム競技への移行を、極めて静かに受け入れている。
声高に語らない現実主義
この文書が興味深いのは、
勇ましい言葉をほとんど使わないことだ。
- 覚悟
- 誇り
- 歴史的使命
そういった表現は控えられ、
代わりに並ぶのは、
- 現実認識
- 抑止
- 段階的対処
- 継続的な備え
これは、日本が
「強い国になりたい」と言っているのではなく、
「普通の主権国家としての役割を引き受けざるを得なくなった」
という姿勢の表れだろう。
まとめ
国家安全保障戦略は、
世界が未知の段階に入ったと宣言する文書ではない。
むしろ、
- 相互依存に過剰な期待を置いてきた前提が崩れ
- 力の現実が再び露わになり
- その現実を吸収してくれていた米国の関与が相対的に薄くなった
その結果、日本が
「考えなくてよい国」ではいられなくなった
という事実を、淡々と記録した文書だ。
マッチョなお父さんの家族から、
役割を分担するチームへ。
司令塔は健在だが、
タックルを避け続ける選手はいない。
それが、
この国家安全保障戦略から読み取れる、日本の現在地だと思う。
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