思考する人が少数派になった時代に
気づけば、ゆっくり考える人がめっきり減りました。すぐに検索し、すぐに答えを出す。そんな社会では、「考える」より「反応する」ことが評価されます。けれども、私たちが本当に生きていくうえで必要なのは、正解よりも「考え続ける力」ではないでしょうか。
速く、軽く、浅く——社会の新しい常識
昔は、一冊の本を書くのに何年もかける人がいました。租税法の金子宏先生、民法の我妻栄先生、行政法の田中二郎先生……。彼らの本は、分厚くて難しく、けれど読むたびに「考える力」を与えてくれました。
いまは違います。研究者は短期の成果を求められ、出版社は薄くて売れる本を望み、読者はスマホで要約を探します。「深く考えること」は、時代の速度に合わなくなってしまいました。だから社会全体が、速く、軽く、浅くなっていくのです。
深さはすぐに役立たない。だが、深さなしに持続する判断は生まれない。
思考に報酬がない時代
考えることには時間がかかり、その時間はお金や評価に直結しません。むしろ「遅い」「非効率」とみなされます。だから多くの人は考えることをやめ、他人の意見を「借りて」生きるようになりました。
しかし、考えなくなった社会では、だれも責任を持たず、だれも本当の意味で自由になれません。思考とは、自由の原型なのです。
学問の使命は「遅さ」を守ること
いま学問や知的営みが担うべきことは、速さに流されない場を守ること。すぐに答えが出ない問いを抱え、不器用でも自分の頭で考え続けること。それは時代に逆らうようでいて、人間らしさを取り戻す最も静かな抵抗です。
考える人が少数派になったとしても、その少数の思索こそが社会を支える根になります。速い社会が過ぎ去ったあとにも残るのは、いつの時代も「深く考えた言葉」なのです。
おわりに:遅さをもう一度、誇りに
金子宏の『租税法』を読み返すと、その文章の背後に、ひとりの人間が長い時間をかけて法と社会を見つめ続けた気配が感じられます。速さが価値になる時代だからこそ、私たちはあえて立ち止まりたい——考えることの遅さを、もう一度、誇りに変えるために。
コメント